生命保険
ライブ会場で出会った友達がいます。
本名さえ知りません。もちろん相手も僕の素性は知りません。
でも、好きなものが一緒なだけでなんとなく茶飲話が出来る。
おじさんたちがスナックに行く理由、ちょっと分かるかも。
そんな友人Aが、靭帯を断裂して今入院してます。
そんな友人Bは、脱腸で今度入院します。
そして、そんな私もひと月ほど入院します。
こんな事なら保険加入しときゃ良かったな。
加入していなかった僕はてんやわんやです。まだまだ寂しい懐ですから。お金掛かるんです。入院。
そんな「保険」、入ってる人居るんですかね。
同世代で入ってる人、そうそう見ません。ちょっと上の人たち、まちまち。だいぶ上の人たち、そんな話ばっかりしてる。いつの時代もそんなものなんですかね。
「自分は若いから」「病気なんてならないから」「死なないから」。若者。
「最近体力落ちてきてさ…」「この前健康診断引っかかったわ…」「親が入院してよ…」。その上。
そこから先は語るに辛し。
当たり前だけど、生物は生まれたら死ぬ。それぞれに寿命が設定されてたり、外的要因で。
ヒトは今だいたい80年くらい生きるらしい。
そりゃ寿命が伸びれば「死」に触れてない若者が増える。それはなんとなくわかる。
現実に起こる「死」を経験しなければ、自分にもある「死」は極めて気付きにくい。
僕もそうだ。だから保険も入ってない。転ばぬ先の杖以前に転ばないと思ってた。
余命宣告はされてない。
だけど、ある日突然日常に「死の淵」が現れたのはとても怖い。
例えるなら道を歩いていて、突き当たったある交差点の左にふと目をやると「死の淵」があるイメージ。
この交差点を曲がった先にある「死の淵」は交差点から多分50m位離れているけれど、僕はこの交差点を曲がり「死の淵」がある事を認識しなければいけなくなった。
行きたい場所があるのに、僕はまた寄り道しないといけない。
やりたい事があるのに、僕はまた寄り道しないといけない。
なくて良いのに。今までなかったのに。スマホ画面にしかなかった「死」が今、僕の左側にある。
若くしてご両親を亡くされた方は、ちゃんと保険に入るのかな。
ご両親がお元気な方はいつまで経っても、保険に入らないのかな。
運良く生き永らえてジジイになった時、僕は間違いなく若者に言う。
「何があるかわかんねえから、保険入っとけ!」
…そもそも保険いらないくらい医療とかが発達してたりして。
言わせてよー。
握手
久々に文を起こします。
よろしくお願いします。
先日、久しぶりに握手をする機会がありまして。
普通握手って〈出会い〉の時に使われる物だと思うんですが、今回は〈別れ〉の時に登場しまして。
理由はこの後に語るかもしれないし、語らないかもしれないし、
それこそ一生その〈別れ〉の理由を知らされない人もいるんだと思う。
知らされないっていうか、絶対に言ってやるもんか の感情なんですけど。
それはそうと、僕はその握手を思い返した時に凄くしんどくなってしまいまして、その理由を考えてまた凄くしんどくなってしまいまして。それくらい心に「来る」握手でして。
結局「なぜしんどくなったか」を自分なりに考えた結果、
それは「自分はここにいれば大丈夫」みたいなセーフティゾーンを失ってしまったから、なんだと。
ある種の帰属意識というか自己承認と言うような。わからんですけど。学ねーな。
会社で仕事を与えられる。
部活でスタメンになる。
クラスでふざけあう。
いいねを貰う。
褒めて貰える。
多分そんなやつ。
そんなセーフティゾーンが握手1つで「満期です。じゃあバイバイ!」と失われた感じがしてしまった。
その握手のタイミングとかニュアンスの軽さ(価値観の相違)も相まって、多分(凄くしんどいなあ)と思ったんだろう。
働く意味なんてないけど、社会不必要の烙印が嫌だからとりあえず会社に行く。
ただ楽しくて始めたスポーツが、いつしか自分のブランド力維持のアクセサリーになる。
クラスで孤立したくなくて、運動部の愛のないイジリ(ド下手)にぶら下がる。
異性から貰えるいいねをステータスにしないと心が満たされない。
セーフティゾーンはリスクヘッジ出来ない。
「◯◯が倒れたけどまだ△△がある」なんて事はきっとない。
そんなドライなセーフティゾーンなんてきっとない、愛着がないから。依存がないから。
だから皆、それぞれのセーフティゾーンを守ろうとして後ろ指刺されたりする。
後ろ指指してる人にも賤しく守ってるセーフティゾーンがあるのに。
そして、今回僕はそのセーフティゾーンを失った。
だから、しんどかった。
…ここまで書いて自分で思った。
「俺めちゃめちゃ愛着湧いてんじゃんあのバンドに!」
ずっと(マジでウマが合わねーなクソが)と思ってたのに。
セーフティゾーンは去ってわかる場合もあんのか!と、また一つ学んだ話。